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Vol.3:レオナルドの「大洪水」と気候危機の表象

いま、地球温暖化による世界の海面上昇は、喫緊の問題だ。氷河や氷床が溶けて海に水が足され、水温が上がるにつれて海の体積が増え、海面上昇は沿岸洪水のリスクを高めている。先のCOP26において、南太平洋の島国ツバルの外相が海からスピーチしたことは、記憶に新しい。世界の多くの気候機関や研究者は、その速度が加速していると強調し、最悪のシナリオでは、2100年には、2000年と比べて2.5m海面が上昇すると指摘する *1。

さて、「Deluge」と言う言葉がある。日本語で「大洪水」と訳されるこの言葉は、キリスト教の『創世記』で語られる洪水神話を指す言葉としても用いられる。1517-1518年に描かれたとされるレオナルド・ダ・ヴィンチのドローイング・シリーズ「大洪水」は、ヨーロッパ美術史において、不可解かつ先駆的な作品だ。大量の乱流が画面を覆う風景のなかに、人間が作った街の破片が石ころのように転がり落ちている。黒チョークやペン、インク を使い、自然界のエネルギーを深い観察力を用いて見事に表象している。作品はレオナルドが亡くなる2-3年前にフランスで描かれ、現在、イギリス王室に所蔵されている。

Leonardo da Vinci, A Deluge, c1517-18, Royal Collection, Windsor.

聖書の黙示録では、世界の終わりは火によってもたらされるとされ、『創世記』では人間と動物が大洪水に飲み込まれる物語が語られている。だが、レオナルドの「大洪水」シリーズには、これらの要素がない。このドローイングとともにレオナルドは文書も書き、この破壊的シーンを論じている。私はこの作品を眺めていると、恐怖や破壊よりもレオナルドの深い好奇心と観察力を感じる。人間は文明を作り、技術を発展させても、自然界の圧倒的なエネルギーの前では何もできない。レオナルドは、この晩年の作品を通して、彼が想像した何らかの自然黙示録、あるいは深い謙虚さを表しているとも言えないだろうか。

レオナルドの作品から300年ほど経った1840年頃には、同じく「大洪水」というタイトルがついた作品が、イギリスの画家フランシス・ダンビーによって描かれた。神が人間の邪悪さを罰するために洪水を送り、ノアの箱舟が背景に見える絵だ。画面の手前右には、亡くなった子供の遺体の上に天使が描かれている。レオナルドとは対照的に、ダンビーは私たちが見慣れた映画的な手法で、同じ主題を表現している。それは崇高で巨大な黙示録的な絵画で、どこかハリウッド映画の「スペクタクル」な表現を思い起こさせる。当時のイギリスでは、黙示録的な作品を描く作家としてジョン・マーティンが有名だったが、ダンビーもまた、大衆に向けた大きなスケールの作品を制作していた。このようなテーマは一つのジャンルとして人々から受け入れられ、ブロックバスター的なエンターテイメントとしても機能していた。

Francis Danby, The Deluge, c1840, Tate Britain

そして、現在、世界中で起きている異常気象は報道写真によって世界中に流通し、我々の記憶に残っている。2005年、アメリカのハリケーン「カトリーナ」による爪痕を収めたマイケル・アップルトンの写真や、2019年、長野県に大きな被害を与えた台風 19号の写真をはじめとして、気象災害のイメージを頻繁に見るようになった。もし科学者たちが警告する最悪のシナリオに進めば、このようなイメージはますます「普通」になり、21世紀を表す集合的記憶になっていくだろう。

Typhoon Hagibis, Nagano, Reuters, 2019

レオナルドの「大洪水」シリーズは、500年前に制作されたものだが、どこか今の時代とつながって見えてこないだろうか。レオナルドが描いた激しく渦巻く水は、産業時代の集大成を不吉に予言しているのかもしれない。海面上昇や異常気象によって、多くの犠牲者や破壊が現実のものとなっているいま、単に昔に描かれた作品という捉え方を超え、差し迫った現実として、心に響いてくる。

*1  https://www.climate.gov/news-features/understanding-climate/climate-change-global-sea-level, https://www.bbc.com/japanese/48345751

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